下天は夢か幻か

歴史好きの経営コンサルタントTAKのブログです。

家康は300年、信長は?

こんにちは、歴史好きの経営コンサルタントTAKです。

僕の仕事は、経営に関することなので
経営環境に合わせた
会社の方向性、戦略
それを実行するための戦術と歴史に関する中でも
戦国時代の領国経営にひどく心を惹かれます。

経営には
その戦略のほかに
それを実行する部隊、いわゆる組織体制
顧客の情報を知るマーケティングと大きく3部門で考えを構成
するわけですが、その組織に関しては
徳川300年夜を気付いた徳川家康

既存の考えを大きく転換して戦国時代から大きく太平の世の
礎を気付きかけたが短期間で織田の世を気付けなかった
織田信長。2人の英雄がいて、とても関心を惹かれるのです。

どう違うのかを考えるととても面白いのかなと思い
日岡山の全国区本屋である丸善
「歴史道」という雑誌の特集で戦国の家臣団の記事があるもの
を見つけ購入しました。

歴史道 vol.1 (週刊朝日ムック)

歴史道 vol.1 (週刊朝日ムック)

この研究の基礎知識と思える記事がたくさんあったので
しっかり週末に読んでみようと思っています。

山田方谷勉強会

こんにちは、TAKです。

 

9月30日、岡山市北区某所、寺子屋にて

僕の尊敬する山田方谷先生の勉強会があると聞いて仕事帰りに

参加しました。

 

講師は、朝森さんという先生。方谷研究会の会長さんなんだそうです。

 

山田方谷先生は、江戸時代末期の陽明学実践者

 

陽明学とは

江戸時代盛んになった学問は朱子学ですが、朱子学陽明学は世間の認識が混在されがちな学問です。しかし、根本的なことが異なり、一言でいえば、朱子学は学問(教え)。一方、陽明学は実践をその基礎とする。(方谷研究会 朝森氏談)

つまり、ぼくの認識では、実践を伴わない学問は絵に描いた餅であり、意味がない。ということでした。それが端的に表れている言葉が「知行合一」なのでしょう

 

 

山田方谷(1805~1877)

幕末維新期の儒学者。名は球、字は琳卿、通称安五郎,方谷は号。備中国阿賀郡西方村(岡山県高梁市中井町)に絞油業を営む父五郎吉(重美)と母梶の長男に生まれる。丸川松隠に就き、のち文政8(1825)年上洛して寺島白鹿に学び、10松山藩(岡山県)藩校有終館会頭となり、士籍に列した。天保2(131)年再上洛、春日潜庵ら陽明学者と往来、翌年江戸に出て佐藤一斎に師事する。7年帰藩後藩校学頭。嘉永2(1849)年藩主板倉勝静の抜擢により元締役兼吟味役、またのち郡奉行となり破綻した藩財政の立て直しを行う。学者としての名声高く、久坂玄瑞、秋月胤永、河井継之助らが来遊従学する。文久2(1862)年藩主が老中に就任するや、方谷を顧問とした。慶応1(1865)年藩主の老中復職後再び顧問となり幕末政局に対するが意を得ず帰藩する。維新後はもっぱら教育に努め、明治6(1873)年再興の岡山県閑谷学校に請われて出講した。その思想は陽明学であるが、単なる祖述に終わらず「経世致用の学」との自信に裏付けられていた。
出典 朝日日本歴史人物事典

 

僕は、高梁市の生まれではありませんが故郷の偉大な人物の足跡をたどり、経営コンサルタントの仕事を続けたいと思いました。

 

とてもいい勉強会でした。